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母のこと [雑記]

こんにちは 翠雀です。

なかなかブログの更新が出来ませんでした。

昨年の冬からずっと実家で母に付き添っていました。
熱を出したのをきっかけに、なかなか食事がとれなくなり
訪問看護士さんが毎日点滴をしに来てくれました。
その頃から、我が家では母を無事に見送るという一大ミッションが始まったのです。

調子が良い時は、好物のイチゴとアイスクリームを食べていましたが
一日の大半をウトウトと過ごすようになりました。

最後まで自宅で過ごしたいという母の願いを叶える為に
ケアマネージャーさんが心をくだいてくれて、ヘルパーさん、訪問入浴、看護師さん、往診の先生
全てが完璧に機能して、最後の数か月をサポートしてくださいました。
母が特に治療を要する病気が無かったというのも幸いでした。

母と私は友だち母娘とは程遠く、常に父の愛情を取り合い、張り合っていました。
父が私を甘やかすので、母はいつもヤキモチを焼いていました。

ずっと私の方が父から可愛がられていると思ってきたのですが
実家で過ごすうちに、どうも違うと思うようになりました。

父と母を見ていたら、もう私が入る隙もない位お互いに必要とし合っているのを感じたのです。

とうとう私は

「この勝負、私の負けね」

と母に言いました。

「ふふふ そぅお?」

と母が嬉しそうにしていたのを思い出します。

点滴だけが頼りの日々でしたが、血管の細い母に毎日看護師さんが苦心して注射してくれました。
ヘルパーさんは母が眠っていても、いつも明るく話しかけてくれました。
入浴サービスのみなさんもとても優しく接してくれました。

そのおかげで、家の中は常に幸せな空気に満ち満ちていました。

それでも、人の死に立ち会った事が無い私には不安もありました。
その時は何が起こるのだろうって。

看護師さんに
「これからどうなるのかな?」

と聞くと、言葉を選びながらも率直に教えてくれました。
呼吸の変化などについて。

「決してご家族だけにしませんから、安心してください」

そう言ってもらい、とても心強く安心できました。

点滴が入らなくなって5日目の夜、覚悟しながら母を見守っていたら
呼吸の変化が見られました。
父が愛情あふれる言葉を母に送り、母はうなずいたように見えました。
私は二人の邪魔をしないようにだまって手を握っていました。

夜中にもかかわらず、看護師さん達が来てくれて母の身支度を整えてくれました。
お嫁入りの時に鹿児島出身の祖父母が用意した大島紬の着物にしました。
そして、私の化粧品で看護師さんと一緒に母にお化粧もしました。

葬儀は戒名不用、香典無用という父の考えから、そのようにしました。
ただし、参列いただいた方々には母からの最期のプレゼントとしてバレンタインチョコを用意しました。
真っ赤なリボンを結び、カードを付けました。

カードは父と兄と私が母の気持ちを代筆して、母ならこう書くだろうなと考えながら
一枚一枚分担して書きました。
茶目っ気のある母らしい言葉を選び、書いては読み上げて、お互いに 「それ、お母さんっぽい」
と笑いました。
私の夫はカードを貼りつけ紙袋にセットする作業を黙々と。

最後に父は母にラブレターを書き、兄も何か手紙を書いて、それぞれ母の懐に納めました。
私は、無駄遣いしちゃダメよと書き、封筒にお小遣いを入れました。

非常識・不謹慎と思われる方もおいでかもしれませんが、これが母が作った我が家なのです。

昨年からの一大ミッションは、沢山の方に支えられて無事に終える事ができました。
3ヵ月間、私が娘としてだけ過ごす事を勧めてくれた夫と、いいこでお留守番してくれた2匹のネコちゃん。
そして母の事を知りながら、普段通り接してくれた方々によって私の平常は保たれていました。

少し淋しくはありますが、悲しいことではないのだと考えるようにしています。

それに、外見にも内面にも母にソックリな部分が私にはあり、母の存在は消えはしないのです。

梅 月影.JPG

いつか母に会った時に沢山の報告ができるように、これからも色々と挑戦したいと思います。
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